【福田淳の対談闊歩】大﨑洋(前編)底辺にいたときに目を開けたらダウンタウンがいた 同期に先を越された吉本社員と芸人の出会い

「福田淳の対談闊歩」今回は元吉本興業会長の大﨑洋氏が登場。吉本時代にダウンタウンを見出したことで知られ、芸人の養成所「NSC」を創設し、若者向けの劇場「心斎橋筋2丁目劇場」を立ち上げたアイデアマンだ。

敏腕のイメージが強いが入社当初は底辺をさまよい、窓際部署を転々としていたという大﨑氏。沖縄のイベントを通じて知り合った福田淳・内外タイムス客員編集長が沖縄への思い、ダウンタウンとの運命的な出会いについて聞いた。

大﨑 よろしくお願いします。福田さんと出会って、中華料理のランチを3回もごちそうになりながら音楽のこと、アメリカのこと、デジタルのこと、いろいろ教えてもらったんですけど、さっぱり分からないまま今日を迎えました。だから、大先輩に聞きたいことがまだまだ山ほどあるんです。

福田 いえいえ、こちらこそ芸能の大先輩にお越しいただきうれしい限りです。我々のつながりといえば、沖縄ですね。

大﨑 僕は吉本興業時代に「沖縄国際映画祭」を企画して16年もやったんですけど、当初はお金を使うばっかりでどうしたものかと悩んでいた。なんとか違う空気を入れて新しい沖縄のお祭りにしたいなと思って、恐れ多くも福田さんに軽くお願いしたら……。

福田 重く受け止めましたよ(笑)。「沖縄国際文化祭2025」を4月にやるぞということでお声掛けいただいた。

大﨑 間髪入れずに引き受けていただいた。もうみんなホッとして裏で泣きながら喜んでいたんです。

福田 すごいですよね。それまで沖縄県内にあったさまざまなイベントを那覇市を中心とした「沖縄国際文化祭」に統合して、レッドカーペットから映画、歌もある壮大なイベントになりましたね。

大﨑 福田さんに全面的に再プロデュースとリノベーションをやっていただいた。アートの部分も手掛けていただき、全然違うジャンルの文化祭に生まれ変わりました。沖縄の独特の文化、県民性を表現できるようになった。

福田 以前、沖縄の大学で講演した時にこんな質問があったんです。「ハワイのオアフ島と沖縄本島は、ほぼ同じ面積で人口もそんなに変わらない。だけど、沖縄はオアフ島の7分の1の経済状況。この格差はなぜですか?」って。

大﨑 なんて答えはったんですか?

福田 僕は自信のなさだと答えたんです。沖縄ってハワイっぽい名前のコテージだとかカフェが多いじゃないですか。あれがコンプレックスの表れだと思う。でも、沖縄から琉球へと文化をさかのぼっていくと、独特の生地だとか色彩感覚があるじゃないですか。アフリカやハワイにあるように。そういった沖縄の良さを全然出せていない。

大﨑 僕は専門じゃないから分からないけど音階も独特でしょ。音が2つぐらい抜けてる琉球音階っていうそうですね。極端な話、江戸時代の鎖国が2026年の今日まで続いていて、世界の人たちがもし今インバウンドで来日したら、「ちょんまげ結ってるわ」ってなりますな。

福田 インバウンドが5000万人になろうかという好機ですが、日本って海外への売り込み方が下手ですよね。逆に海外の人が日本の良い所を発見してくれている。例えば、富山のガラスの美術館が素晴らしいだとか、青森の山間部を走る電車に乗ってその風景が「まるでスイスだ」とか違った角度で見られる。「コンビニがすごい、自販機がすごい」って気付かないことを発信してくれています。沖縄なんて面白いところがいっぱいありますでしょ。

大﨑 福田さんは常々「体験価値が大事」とおっしゃっている。沖縄っていうのは体験価値の宝庫で、これからますます大事にしなければと思うんです。

福田 ヤンバルクイナが生息する原生林とか、ダイビングスポットだって世界のトップクラスに入るところがいっぱいあって、挙げればきりがない。そもそもどうして沖縄に魅了されたんですか?

大﨑 昔ね、もうお亡くなりになりはったんですけど、笑福亭仁鶴さんという方がいらっしゃった。一番弟子に笑福亭仁智さんというのがいて、大阪港から沖縄まで行く船の中で仁智さんが落語のネタを3回か4回やるという仕事があったんです。僕は入社してまだ1週間ぐらいの時で、仁智さんのカバン持ちで同行しました。そこで生まれて初めて沖縄に行って、「すごいな、ここはいい意味で日本じゃない」と感銘を受けたんです。

そこからハマって通い出して、もう吉本を辞めて友人と一緒に沖縄に移住しようとしてたんです。僕は金がないから、友人に「お前、会社作って、事務所を構えて、車も買って、全部スタンバイしてくれ」って頼んだんです。友人も単純なやつなんで「分かりました」と全部そろえた。実際に番組の企画書を作っていろんな放送局や銀行を回ったんですけど、どこもピクリとも動かず。あの時会社辞めなくてよかったなぁ。そこからですね、沖縄とのかかわりは。

福田 沖縄に移り住んで、仕事までしようとしていたんですね。初めて知りました。だけど、吉本興業に残ってトップにまで上り詰めた。入社当初からやり手だったんですか?

「大﨑さん、僕たちどうして売れないんですかね」と問い詰めてきた2人

撮影・内外タイムス

大﨑 入社すると京都花月という劇場に配属されました。ほかの同期は、大阪で飛ぶ鳥を落とす勢いで出てきた明石家さんま、紳助・竜介(島田紳助・松本竜介)とかのマネジャーになっていました。さらに、やすし・きよし(横山やすし・西川きよし)さんとか、桂三枝(現・桂文枝)さんの現場もやりながら、業界内にどんどん顔を広めていった。いろんなテレビ局員の名刺をいっぱい持っていました。番組の企画やイベント、ポスターのデザインがああだこうだとかやっていて、華やかな「ザ・芸能界」って感じでしたね。

福田 それは入社早々いきなり左遷されたようなものですね。同期のみんなが京都でスタートなら納得いきますが、どうして自分だけと思いませんでしたか?

大﨑 同期の中で入社の順番がビリッケツだったので、そのへんはもっともだと素直に納得してたんです。当時の京都花月は売れない芸人さんや占い芸人さん、世代も若手からおじいちゃん、おばあちゃんまで出ていて、大阪にはない場末の小屋みたいな感じがプンプンしてた。そんな人たちの悩みをずっと聞いてました。当時は20代だったから、僕みたいなやつに何か頼んでくれることが本当にうれしかった。

福田 会社って本当に残酷ですね。同期と水を開けられて焦りはあったんですか?

大﨑 本来だったら京都花月で鬱々(うつうつ)とした日々を過ごすと思うんですけど、僕は「やった、毎日京都に行ける」って喜んでいました。逆境を逆境とも感じていませんでしたね。やることもないんで「今日の昼ご飯、肉丼食えたらうれしいなぁ」とか「せや、今日は早めにサボって銭湯行ったろ」って毎日楽しく過ごしてました。

ただね、サラリーマンってやっぱり組織の中にいて、上昇志向とまでいかなくとも誰だって上を見るじゃないですか。僕は一番底辺にいて、劇場のゲロの掃除なんかもやっていましたよ。上を見る余裕もなくて、そんな気分でもない。そんなとき、一番下からちょっとだけ顔を上げてみると、そこに暗い、汚い松本(人志)君と浜田(雅功)君がいた。本当に一番の底辺のところで、ちょっと目を開けたら2人もいてた。

福田 ダウンタウンと運命の出会いを果たすわけですね。

大﨑 それがまあラッキーだったんですよ。ただそれだけのことなんです。松本君と浜田君が「大﨑さん、僕らのことどう思います?」って聞いてきて、「いやいや面白いよ。たぶん日本一、世界一になれると思う」と答えたんです。そしたら「じゃあ大﨑さん、どうして僕たち売れないんですかね」って。同期のハイヒールやトミーズはすでに売れていて、ダウンタウンの2人は全然仕事がなかった。「なんでやろなぁ」とか言いながら喫茶店で3人、コーヒー飲んでましたよ。

福田 最初に出会った時は、同期に抜かれて同じような境遇だったんですね。

大﨑 何の担当もなかったから、とりあえず僕がマネジャーしようかってなったんです。その頃の吉本のマネジャーは、10日ごとのスケジュールを芸人さんに手渡すというシステムでした。劇場が上座、中座、下座って10日ごとに分かれていたからなんですね。それで、松本人志様、浜田雅功様ってボールペンで書いて、それぞれに10日間のスケジュールを書いて渡した。

スケジュールといっても「ネタ合わせ」とか「コントの稽古」、2人とも金ないんで「衣装を見に行く」とか、最初は無理やりに用事を作ってました。だって、仕事がゼロで真っ白のスケジュールを渡すのはマネジャーとして失格じゃないですか。二つ、三つ、仕事が入っているように見せて、2人に初めて手渡した時のことが忘れられないですね。スケジュールを見てうれしそうにしみじみと笑ってくれた。今ではあんな横暴な2人になってしまいましたが、やっぱりそんなところから始めました。

福田 用事があるってとても大事なことですよね。必要とされていることでもあるから。大﨑さんのお話をうかがっていて感じるのは、今の言葉で言う「自己肯定感高め」ですよね。出世なんてどこ吹く風で、「まあいいじゃない」といった感じでガツガツしてない。幼少期からそのような性格だったんですか?

大﨑 子どもの頃のどの写真を見ても口が開いてるんですよ。近所の道端で寝たりして、「大﨑のとこのヒロちゃん、また寝てるわ」って近所で言われていました。「大丈夫か、こいつ」みたいな子どもだった。

福田 超リラックスしてる子どもだった。

大﨑 そうなんですよ。大人になってから気が付いたんですけどね。

【福田淳の対談闊歩】大﨑洋(後編)ダウンタウン松本はテレビをやりたいと思っている 吉本退職で振り返らないと決めた残りの人生に続く。2月20日18時公開予定。

撮影・内外タイムス

《プロフィール》大﨑洋(おおさき・ひろし)1953年大阪府堺市生まれ。78年関西大学社会学部卒業後、吉本興業に入社。2009年代表取締役社長、18年共同代表取締役CEO、19年吉本興業ホールディングス代表取締役会長。23年同取締役会長退任、同年日本国際博覧会協会の「大阪・関西万博催事検討会議」共同座長に就任。一般社団法人mother ha.ha代表理事。著書に「居場所。」(サンマーク出版)、「あの頃に戻りたい。そう思える今も人は幸せ」(飛鳥新社)など。

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